大塚城は、佐々木六角氏の家臣であった大塚氏の居館で、南側は近江鉄道朝日大塚駅北側から北へ稲荷神社周辺、東側は近江鉄道敷より東100Mほど、西は妙厳寺西側付近の地域で、昭和56・57年度の県営ほ場整備事業により森林部分と田圃になっている。本城は稲荷神社の南側にあたり現在は田圃内である。南部分の森林内には、現在も土塁と堀の一部が残っているが、大部分は田地となった。
城館跡から昭和56年度の調査で多量の水晶剥片が出土し、丸玉(径5mm程)の製品、碇石や坩堝(るつぼ)も出土している。大塚氏については、戦国時代(1477~1573)には「大塚十人衆」といわれ、文明元年(1469)佐々木氏の被官として文章にみえ、天文年間(1532~55)には芦原観音寺(草津市)の湖水船奉行を担い、佐々木六角家の出納事務をしていた。しかしながら六角家の敗北により蒲生氏に伝えたが、蒲生氏が伊勢松ヶ島へ転封(天正12年(1584)(安土桃山時代))となったとき大塚城を破却し、在地に残り「農民」となった者、伊勢・会津・松山と蒲生氏に付き従い、「武士」となった者等に分かれていった。