蒲生地域を通る街道は、鈴鹿峠から近江国に入り土山宿から草津宿の東海道、関宿から近江国に入り柏原宿から草津宿に至る中山道である。これらの街道が関ヶ原の戦い後に整備され、人馬の往来が多くなるなか、土山宿と愛知川宿を結ぶ脇往還として、伊勢大道などと言われた御代参街(海)道(慶応3年以降)に、寛永17年(1640)4月伏見奉行小堀遠江守の御触書に「春日の局が、5月伊勢神宮へ御参宮されたのち多賀大社へ御参社される」ので継ぎ立てを仰せ付けられています。
春日の局は、慶長9年(1604)家光出生に際し板倉勝重〈かつしげ〉の推挙により乳母となり、寛永6年(1629)後水尾天皇が幕府の処置に対し逆鱗し譲位の意志を示すさなか、局は大御所秀忠の内意を受け上洛し、参内して天盃を賜り「春日局」の号を許されました。
これまで御代参街道の宿駅は、鎌掛宿(日野町)・岡本宿(東近江市)・八日市宿(東近江市)の三宿で小規模でしたが、この時整備され石原宿(日野町)が設けられ、岡本と合宿となりました。石原宿は鎌掛宿から八日市宿への「上り片継」、岡本宿は八日市宿より鎌掛宿への「下り片継」となるが、岡本宿のみでは継ぎ立てが維持困難となり近隣の村々に助っ人を頼む「助郷〈すけごう〉」の制度化も進みました。