◎蒲生の人々

狩野山楽

安土桃山から江戸時代に懸け活躍した、京狩野の祖と言われている狩野山楽は、蒲生地区木村町で永禄2年(1559)に、浅井長政の家臣木村永光の子として生を受け、幼名平三と言われています。
父永光と共に、狩野元信に画を学んでいた。浅井が敗れてのち永光は、豊臣秀吉に仕え、平三も光頼と名を改め、秀吉の小姓となって15歳の時、秀吉の長浜城築城臨検にお供した。その時、光頼が杖で砂上に馬の絵を描くのを見て秀吉は感心し、当時の巨匠狩野永徳に付いて、画を学ばせ光頼の画才が大きく開き、永徳の養子となり木村姓から狩野修理亮と名乗りました。
その技量が大きく開花したのは、天正16年(1588)落雷で損傷していた、東福寺法堂の室町時代を代表する画僧明兆の描いた雲龍図の天井画を修復することになり、師永徳が雲の部分の修復に懸かると急病にたおれ、修理亮光頼が後を託され明兆の雲龍図をすべてはがし、板に胡粉を塗り、身の丈50㍍にもなる雲上にどくろを巻く蟠龍図を描き、一躍名声を得ました。
慶長20年(1615)大阪城落城の時、身の危険を感じ男山八幡宮に身を隠していましたが、松花堂昭乗の取りなしにより徳川家康を駿府城にお目見えして許しを請い、受け入れられ京都に帰った光頼は、剃髪して狩野山楽と号するように、「京狩野の祖」と呼ばれています。

狩野山楽の東福寺蟠龍図